私、安藤まどかが主宰する「スパイス基地たまりんど」でスリランカ料理教室を始めます。
スリランカ料理を日本の野菜で作るには?季節の移ろいを楽しみながら、でもやっぱり、ひとくち食べると心はスリランカへ!毎日の食卓にさりげなく添えられる、すてきな小さなおかずを一緒に作りましょう。
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スパイス基地たまりんど<ご利用の流れ>
初めての方は、まず「予約カレンダーの合言葉をさがせ」のページから必要事項を送信してください。
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インドの「ボンベイ・カラチ・ハルワ」というスイーツを、先日、私の勤め先である料理教室、キッチンスタジオペイズリーの授業で作りました。
その時「スリランカではこのお菓子、マスカットって呼ぶんですよね」と言ったら何でだろう??という話になり、調べてみました。
結論から言うと、この菓子の発祥はどうやらアラビア半島オマーンの首都マスカットのようです。
地図で見ると、オマーン湾をへだてて向かいはパキスタンのカラチ、アラビア海を越えればインドのボンベイ(今はムンバイと呼ぶようになりました)。料理の名前に登場する三つの都市は海洋交易上のご近所さんであることが分かります。もちろんスリランカもそれらの都市と海路でつながってきたのです。(クリックすると地図が拡大します。)
スリランカの人口の10%弱を占めるムスリム、「スリランカ・ムーア」とも呼ばれる人々はアラブ商人の末裔。大航海時代以前からスリランカを海の向こうとつないできた人々の子孫です。母語はほとんどの場合、タミル語。
シンハラ人、タミル人に次ぐ第三の勢力として、微妙な立ち位置を保ちつつ、スリランカ社会に柔軟に適応することで活躍し生き延びてきた人々です。
1920年代、60年代に刊行された古くからのスリランカ料理本に、作り方としていくつものアレンジが掲載されていることからも、マスカットは「セイロン料理」として愛されてきたことが分かります。
民族や宗教の境界線、政治の思惑はともあれ、美味しいものは美味しい。スリランカ人のそういう現実的なところが私は大好きだし、このボーダーレスな胃袋こそがこの国の希望だと密かに思っています。
スリランカに行く機会があったら、街角のカデー(定食屋)のガラスケースにありますから、そんな歴史に思いを馳せつつ食べてみてくださいね!
【参考資料1】
■アスィフ・フセイン著『イヴィリー・ペヴィリー(食べ物と飲み物)』
Ivilly Pevilly by Asiff Hussein p. 159
「スリランカのムスリムが作る菓子で有名なものにマスカットがある。小麦粉、ギー、砂糖、カシューナッツでできた油分多目の菓子で、緑、赤、黄色などに色づけする。四角く切って、断面が少し固まっているのを食べる。アラブから伝わったものらしく、マスカットという呼び名はおそらくオマーンの首都マスカット(Masqat)に由来する。この菓子はマスカットの街の名物なのだ。ロバート・ビニングが1857年に出版した本にこの菓子のことを書いている。マスカットの街ではハルワという菓子が作られていて、小麦、精製糖、むいたアーモンド、澄ましバターでできていること、また、大量に生産されてインドやペルシャの各地に輸出され珍重されている、とある。」※著者の承諾を得て一部抜粋、翻訳(意訳)。
【参考資料2】
タイムズオブオマーン紙 オマーンのスイーツ事情、老舗ハルワ店について
“Traditional Omani halwa passes the test of time”
【参考資料3】
■チャンドラ・ディサナヤカ著『セイロン・クッカリー』
二種類を掲載。シンプルなもの(水、砂糖、ローズウォーター、小麦粉、ココナッツミルク)と、豪華版(ココナッツフレークやカシューナッツ、ギーを加えたもの)
Ceylon Cookery by Chandra Dissanayake(初版1968年、6版2005年)p. 411 (レシピ番号396,397)
【参考資料4】
■ヒルダ・デュートロム著『セイロン・デイリーニュース・クックブック』
パパイヤ、青バナナ、芋、カボチャ、サゴなどを使ったバリエーションを紹介。
Halwa-de-Muscat, Papaw Mascat, Plantain Muscat, Potato Muscat, Pumpkin Muscat, Sago Muscat, Sweet Pumpkin Muscat
Ceylon Daily News Cookery Book by Hilda Deutrom(初版1929年、18版2016年)p. 277-279(レシピ番号1155-1162)
スリランカのお正月は4月の半ば。家族、親戚で集まって過ごすのはもちろんなのですが、面白いのは、地域を挙げての大運動会&文化祭が行われることです。
日本に住んでいるスリランカの方たちも、この季節には「新年祭」を開催しているのをご存知でしょうか。クリックするとチラシが開きます、ぜひ行ってみてください!
2019年の新年祭@千葉県野田市
2018年の新年祭@千葉県取手市
そしてニシャンタ先生による解説を貼っておきますね。「4月はスリランカのお正月」
以下の写真は、私が今年のお正月をすごした北部州ジャフナ県アリヤーライ村の運動会。
↓↓女性の綱引き。かあちゃん、行けっ!!!取り囲む男性陣、応援に夢中ですごい盛り上がり。
↓↓丸太の上に座って、枕で叩き落しあう。結構、痛そう…
↓↓徒競走
◆ジャフナのお正月2019年4月
百年目のお正月
お正月の自転車レース
お正月のおっさんず時代劇
お正月のインド歌手コンサート
お正月の運動会 ←今ここ
参考:
ニシャンタ先生による解説「4月はスリランカのお正月」
関連記事:
ジャフナとは
「百年目のお正月」の続きです。村を挙げてのお正月行事@北部州ジャフナ県アリヤーライ村
ふと振り向くと、いつの間にか運動場が満員になっていてのけぞりました。
何人入っているんだろう、予想をはるかに超える規模のコンサート。
この正月行事のために、南インドから何人もの有名歌手を招いているのです。
ここ、アリヤーライ村などスリランカの北部州は、タミル語を母語とする人が大多数。
テレビ番組や映画などの流行も、南インドのタミルナードゥ州のものがそのまま流れ込んできているようです。
なかでも素晴しかったのは歌手、ニクヒル・マシュー(Nikhil Mathew)のバラード!
南インドのタミルナードゥ州にスーパー・シンガーという才能発掘系のテレビ番組があるのですが、そこで2006年に優勝し、映画の吹き替え歌手になるチャンスを得て有名になった人だそうです。
歌って踊ることで知られるインド映画ですが、歌は俳優本人ではなく、こういった歌手の人たちによる吹き替えです。
この曲なら知ってる人いるかな?「カーダル・アヌッカル/愛の原子」 カバー曲なんですけど、日本でも2012年に公開されたラジニ・カーント主演映画「Enthiran」(ロボット)より。誤解のありませんように、映画でニクヒルが歌っているわけではなくて、カバーして歌ってる動画ですよ。
この日のステージで歌っているのも、いろんな映画の主題歌。ラブソングでは男女のかけあいなどありますから、男女数人がずらっと並んで歌うんですね。
これまで、映画を観ることはあっても、吹き替えシンガーのコンサートなんて初めて観たので、すごく新鮮でした。
合唱のように楽譜を見ながら歌っていたのも吹き替えならではだったのか?単に、自分の持ち歌じゃないのを歌っていたのでしょうか。
ちなみに、このニクヒル・マシューという歌手は、タミルナードゥ州ではなくお隣のケーララ州の出身で母語もマラーヤラム語。韓流歌手が日本で人気になるような感じ?両州の関係、もしかするともっとずっと近いのかもしれませんけどね。
それにしても。
ドラヴィダ系男子のメガネ&サロン(腰巻)は反則だよ…どうやったってキュートになるっしょ!!!苦笑
後からネット検索した写真でみるとそこまでドンピシャ好みのヴィジュアルってわけじゃなかったけど、ステージの上の彼には、もぅ、おばさんウットリでした♪♪♪
◆ジャフナのお正月2019年4月
百年目のお正月
お正月の自転車レース
お正月のおっさんず時代劇
お正月のインド歌手コンサート ←今ここ
お正月の運動会
参考:
ニシャンタ先生による解説「4月はスリランカのお正月」
関連記事:
ジャフナとは
時代劇。ジャフナ王朝の王様なのでしょうか、陥れられてヨーロッパ人の植民地支配者に殺されてしまうまでのお話。下の動画にある砦、ジャフナとかゴールとか、主要港にヨーロッパ人が築いたのが今でも残っているアレですね。
隣席から所々英語で解説してもらいつつ、言葉が分からなくても観てれば分かるというやつ。
ヨーロッパ人役の人もタミル語でしゃべるんだけど、わざわざ外国訛りのタミル語で演じていたらしい。大河ドラマ、黒船来航シーンで「ハロー、ショーグン!ワタシ、ペリーね!」みたいな?!笑
私には聴いてても違いは分かりません、一緒にいた人が面白がって教えてくれました。
そして「この劇団は各地をまわって公演してるの?」とたずねたら笑われた。
「みんな、この村の人たちよ!王様役の人、今朝うちに来てたあの人よ?」
マジか!!!
村のおっさんたちが劇団を結成。8ヶ月の稽古を重ねて迎えたこの日だったとのことです。
イギリスだったかオーストラリアだったか、海外移住先で演劇経験のあった人が、移住先を引き払って村に戻ってきていて、この劇の脚本を書いたり、演技指導をしたそうです。
演劇は、前から正月行事の定番だったけれど、その人が帰ってきてからは一層、見ごたえのあるものになったらしい。
後で近くに行ってみたら、舞台装置はベニヤ板で組んで立派にペイントしてありました。こういうの本格的に作っちゃうところがすごいよな。衣装も、かなり遠くからでも豪華に見えるよう工夫されていることが分かると思います。
何よりも、舞台裏に激励に行ったときの、役者さんたちの恥ずかしそうな、嬉しそうな、達成感いっぱいの笑顔にやられた!太鼓腹のおっさんたちなのに!!笑
みんな、カッコよかったよっ!
◆ジャフナのお正月2019年4月
百年目のお正月
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参考:
ニシャンタ先生による解説「4月はスリランカのお正月」
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ジャフナとは
「百年目のお正月」の続きです。村を挙げてのお正月行事@北部州ジャフナ県アリヤーライ村
2019年4月13日、朝6時半。新年を翌日に控え、午前中にはマラソン大会と自転車レースが行われました。どちらも上位入賞者にはかなりの額の賞金が出るのです。
自転車レース歴3年目というお兄さんたち。
本業はバイク修理、塗装など。今回は50kmレースに参加、もちろん狙うは1等賞金5万ルピー(3万5千円)。
自転車はパーツを買って組み立てた自作。賞金代わりに自転車をもらったこともあるけれど売ってお金に換えたんだって。
女子のレースもあって「あの娘はすごいよ」と皆が指す女性は90kmを3時間半で走るとのこと。
「あの人は俺たちのアニキ、一番の古株」と教えてもらった青いウェアの男性は64歳。
1971年から、これまで268レースを走ったそうです。1995年から2006年は内戦のため自転車レースには出ていない。
「もう歳だから、順位より出場に意味がある。300レース出場を目指してるんだけどね」と穏やかに笑います。
この村の出身ではなく、いろんなところで開催される自転車レースに参加しているそうです。
「Northern Province(北部州)」と書いたお揃いのジャージを着た若者が何人も。自転車チームがあるようです。
見かけたのはお一人だけでしたが、高齢で脚が悪くなって自治体からこの車椅子を支給されたとのこと。この村の辺りではあと一人、同じのを使っている人がいるらしい。
乗り心地どうなんですか?ときいたら「とってもいいよ!」と自慢げ。
そう、自力で漕いで行きたいところに行けるって嬉しいですよね・・・
残念ながら時間の都合で車椅子レースの開始には立ち会えず。応援したかったんですが。
男子レースのスタート地点。
女子レースはゴールの瞬間に立ち会えました。
タイヤひとつ前に出て走り抜けた選手のガッツポーズと破顔。目に焼きついています。
スタートやゴールの写真がないのは、気温30度以上の屋外で、スマホの温度が上がりすぎて肝心の時にカメラが使えなかったんです。
そんな中、マラソンの出場者は、なんと裸足の人も多数・・・!
お正月ということで帰省している海外移住組はナイキのウェアにガーミンの腕時計(脈拍など出るスポーツ用のもの)つけて走っていて…
なかなかのギャップだよね。
◆ジャフナのお正月2019年4月
百年目のお正月
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ニシャンタ先生による解説「4月はスリランカのお正月」
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ジャフナとは
スリランカのお正月は4月、2019年は14日が元旦でした。
私は北部州のジャフナ県アリヤーライという村で、料理修行先の家族(ジャフナ料理本著者のご一家)と過ごしました。
「今年のお正月は百周年で、すごいから」と言われてはいたのですが・・・
目にするものに心揺さぶられ続けた3日間でした。
アリヤーライ村の、新年の恒例行事である「大運動会&文化祭」は、百年前の1919年、植民地支配下で始まりました。
英国支配に対抗して、自分たち(タミル人)の文化のすばらしさを自覚し結束を強める目的でした。
その後、その時々で意味合いを変えつつ、この行事は続けられてきました。
1983年から26年間にわたる内戦中も途切れることはなかったそうです。
中でも1990年から2002年の12年間は特に苦しい時期で、この村を含むジャフナ半島全体が陸の孤島となり、物資の流通はおろか、電気などのインフラもままならない状況でした。
この村は、1995年と2000年の二回、強制退去も経験しています。
戦闘地域になってしまい、村に残ることが許されず着の身着のまま家を棄て、国内避難民として近隣に流れ込むしかなかったのです。
そのような混乱の中でも開催をあきらめなかった行事の、百周年でした。
この記事、冒頭に掲げた門の写真には「アリヤーライ・コミュニティセンター」とあります。
地元の人らはこの施設を「ライブラリー」と呼ぶのですが、運動場付きの公民館のようなもので、保育園が併設されていたり、配給所があったり、運動場では放課後にスポーツ教室が行われたりしています。
アリヤーライ村にはこのような施設が11軒もあり、今回の百周年にあたって、イベントの主要会場となるのはもちろん、それぞれのセンターが企画して記念行事の一端を担ったそうです。
こうやってお正月を一緒に過ごさせていただくことがなければ、内戦で人っ子ひとりいなくなったのがそんなに遠い昔でもないこの村に、これほどまでのことが行われていると気づきもしなかったでしょう。
長年にわたる混乱を避けて、多くの人が村を離れてコロンボや海外に移住したので、この百周年には普段は村に住んでいない人たちがたくさん帰省して参加していました。
この行事のために、海外移住組の間では多額の寄付集めも行われ、その規模は、これに続く記事の写真から想像していただけるかと思います。
村にずっと残った人たちと、出て行った人たち。両者の混在ぶり、その関係性もまた、内戦終結10年目(この地域の生活が落ち着いてきてまだ5年くらい)の今ならではかもしれません。
ジャフナに行くのはこれで5回目になりました。
3年前に初めて訪れたときは、これがかつてのスリランカ第二の都市かと衝撃を受けたのですが、その第一印象で語りつくせない地下水脈のようなものが文化的にも経済的にもあるのかも…
躍動するジャフナ、いまこの瞬間をめいっぱいに生きる人々の輝きに心打たれつづけたお正月でした。その片鱗でも伝わるといいのですが。
◆ジャフナのお正月2019年4月
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ニシャンタ先生による解説「4月はスリランカのお正月」
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ジャフナとは
ジャフナ地方の料理を紹介した本 “Jaffna Cookery” の著者を訪問した話の続きです。
連れて行っていただいたヒンドゥ寺院では11日間にわたる盛大な祭礼が行われていました。
担がれてお寺から出てくる神様たち。
炎が上がる素焼きのつぼを行進する御神像に掲げているのは、特別に願掛けがある人たちなのだとか。
自分の力ではどうにもならないいろいろなこと。家族の病気。子どもの将来。家計の問題。あるいは戦争で行方のわからなくなった誰かのこと・・・
神頼み、なのだけれど、それは、神に委ねる、でもあるのかもしれない。
ヒンドゥ教では、聖なるものが俗なる姿をとって、ものすごく近くにあるような・・・
しかも、近しくなることで神聖さが弱まるのでなく、聖なるものが聖なるままに、衣の襞に手を伸ばせるところに生きている距離感とでもいうか。
山車に御神像を乗せているところ。赤いカーテンのところに一柱ずつ安置する。
ライトアップされた山車が曳かれてゆっくり進む。背中をこちらに向けている人たちは手に綱を握って引いています。
巨大な山車の真下で進路を調節する人たち。
御神像を乗せた、見上げるような山車があと少しで寺の敷地ををひとまわりする頃、それまで男性だけで曳いていたところに女性たちがワラワラと駆け寄って加わり始めました。
私も勧められて一緒に綱を握りました。全力でうーんっと曳くと、クラッと山車が動く大きな手応え。おぉぉ・・・!!
内戦の26年間、一度も、この祭りが途切れた年はなかったそうです。途中、ジャフナへの出入りがほぼ閉ざされ、陸の孤島となっていた12年間も。
次第に男手が足りなくなって、山車を曳くのに女性も加わるようになったと言っていましたが・・・
2002年の停戦直後の祭りでは、敵対するはずのシンハラ人兵士たちも、軍服のズボンのまま上だけ脱いで一緒に山車を曳いていたのよ、と話してくれた人がいました。(参拝時は男性は上半身裸になるのが決まり。)
「ここの寺はガネーシャ神を祀っているでしょう、仏教徒もガネーシャに祈るから日頃からお参りしてたみたい。シンハラ人だって前線に送られて怖かったんじゃないかな」
誰でもいいから力を借りて、何がなんでも御神像に寺の周りを一周してもらわないと、ということだったのでしょうか。
綱を引くこの手ごたえを
来る年も来る年も・・・・・・
いつ終わるともしれない、未来閉ざされた中で。
どんな思いで。
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◆”Jaffna Cookery”の著者を訪ねて
マダム・ソーマセカランの台所
一族ゆかりのお寺へ
山車を曳く ←今ここ
著者のサイン会
ジャフナ地方の料理を紹介した本 “Jaffna Cookery” の著者を訪問した話の続きです。
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◆”Jaffna Cookery”の著者を訪ねて
マダム・ソーマセカランの台所
一族ゆかりのお寺へ ←今ここ
山車を曳く者たちの祈り →Coming Soon
著者のサイン会
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料理が一段落したところでお参りの時間になったので、食事の前にヒンドゥ寺院へ。著者のご先祖が土地を寄進して建てたという、一族にゆかりのお寺でした。
ちょうど、11日間にわたって行われる、一年で一番大きなお祭りの最中だったのです。この日は朝10時と夕方6時に、翌日は朝8時から昼過ぎまでというように、連日、祭礼が行われており、私も二日にわたってご一緒に参拝させていただきました。
実は、著者はふだんコロンボにお住まいですが、このお祭りのために故郷に戻っていたのです。
内戦やそれに先立つ政情で頭脳流出が著しかったジャフナですから、そういった帰省組は多かったようで「この人はオーストラリアから」「この人はドイツ在住」「来週の飛行機でサウジアラビアに帰るの」と、そんな話ばかり。そして、会う人みんな親戚なのでした。
帰省できない人たちのためか、ドローンまで使って祭りの様子を撮影。facebookのコミュニティにどんどんアップされていきます。
参拝前には足を洗い、最初だけは必ず正面の門からと教わって中に入ると・・・
祭りというのは、きっと本来こういうものなのでしょう。
文字通りの祈りの場。
はじめに神像にお香の煙をかけたり、ひとしきり儀式をした後、担ぎ上げてお神輿に乗せ、お寺の中をぐるりと一周。その後、外に出てさらに大きな山車に乗せてお寺の周りを周ったり・・・
「人間にするのと同じように神様のお世話をするの。朝起きたら服を着せて食事を備えて、外に出て・・・。明日は戦争に行く日なのよ。出陣前は赤い飾りで司祭も赤い服、お寺の周りをまわるのは進軍、勝利して戻ってきたら緑色に着替えるのが観られるわよ」
ヒンドゥ教の知識がない私が記憶に留め得た範囲のことなので誤りもあるかと思いますが・・・
そんな説明を聞きながら思ったこと。
もしかすると儀礼の間中、この人たちの頭の中では神話の大活劇が展開しているんじゃなかろうか。お寺の屋根を鮮やかに飾る、あの極彩色の神像たちが感情豊かに動き回るような、すっごいリアルなやつが。
生演奏のラッパと太鼓が、かなりパンクというか、演奏している兄ちゃんたちはもはやエレギをかき鳴らしているようにしか見えないノリノリロックンロールで、即興の掛け合いがライブ感満点。その勢いがいやが上にも物語を盛り上げて・・・
あの猛烈な、細胞が渦巻くような、熱気というか圧というか、めくるめく感覚は何だったのか。何度も涙がこぼれました。
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◆”Jaffna Cookery”の著者を訪ねて
マダム・ソーマセカランの台所
一族ゆかりのお寺へ ←今ここ
山車を曳く者たちの祈り →Coming Soon
著者のサイン会
料理の仕事を始め、自分なりの何かを持てるようになりたくてスリランカに通い始めて2年半。
ジャフナ地方の料理を紹介した本 “Jaffna Cookery” の著者に会いたくて、行く度にアプローチするも、会っていただけたり、いただけなかったり・・・
この度、ツアー前に休暇をいただき1週間早く現地入りしたお陰で、4回目にしてやっと、ジャフナのお宅で台所に入れていただけたのでした。
到着するなり、畑に入ってひとつひとつ野菜の名前を教えてくださる著者。
モリンガの剥き方。煮込んだものを唇でちゅーっとしごいて、中の柔らかいところだけを吸うように食べるものです。庭の木からもいできました。この日はヒンドゥ寺院にお参りするので肉や魚は口にせずベジタリアンメニューです。
料理が一段落したところで、お参りの時間になったので、食事の前にヒンドゥ寺院へ。お寺でもお振る舞いがあり、少しだけ包んで持ち帰って家でいただきました。
お寺でお振る舞いを食べる参拝者。お皿にしているのはバナナの葉です。
ジャフナのお宅は仮住まいなのでシンプルなしつらえでした。調理器具も「あれはどこかしら」と探したりしながらでしたが、著者と長女のクマーリさんと3人、庭から採ってきた野菜を刻んで煮炊きして。
ジャフナの香りを一番深いところまで吸い込んで、胸がいっぱいになりました。
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◆”Jaffna Cookery”の著者を訪ねて
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著者のサイン会
6日間の滞在を終え、いよいよ空港へ。ツアー最後のイベントは、ジャフナ料理本”Jaffna Cookery”の著者のサイン会。
ここ数年でジャフナ・タミルの料理を紹介する本が立て続けに出ましたが、それまでは1995年刊行のこれと2003年に出たもう一冊くらいしかなかった貴重な資料でした。
ツアー前にお目にかかったとき、9/1に帰国しますとお話ししたら、なんとご家族の見送りでちょうど空港にいるからと、私たちの到着を待っていて下さったのです。
古いもので写真もない本、サインがもらえるからと買って下さった皆さまのためにも、中身の料理をご紹介していく責任!!!を感じております。
この本にまつわるたくさんのエピソードをはじめ、スリランカ料理のさらに多様な魅力をご紹介できる講座コンテンツを作って行かないと…ですね…
Photo #1 by Noriko Tomitsuka
★キッチンスタジオペイズリー「スリランカ・ツアー2018」レポート
ツアー最後のランチはホテルアマンガラにて。
スリランカ南部の町ゴールには要塞に囲まれた旧市街があり、丸ごと世界遺産となっています。
その一角に佇むアマンガラは、1684年にオランダ統治下で建てられ、1863年には英国統治下でニューオリエンタルホテルとして開業したものをそのまま活かしています。
アマンリゾーツのファンからは、これがアマン?!とも言われてしまうようなのですが、歴史の刻まれた本物の重厚さは、これぞコロニアル。
そんな雰囲気と優しいお味のランチ、楽しんでいただけたようで良かったです。
私はゴールにも通っている料理修行先があるのですが、毎度、終わったあと夕方ヘロヘロになってここに転がり込み、ハイティー(アフタヌーンティー)メニューのスコーンセットを頼むのが自分ご褒美&打ち上げなんですよね(笑)
いつも独りで来るしかないお気に入りスポットに、大切な方々をご案内できる悦びをじんわりかみしめたひとときでした。
★キッチンスタジオペイズリー「スリランカ・ツアー2018」レポート
シーギリヤロックに登りヘリタンス・カンダラマホテルに泊まるという贅沢な一日。
かのアマン・リゾーツをはじめとする世界のリゾート建築に影響を与えた建築家、スリランカ出身のジェフリー・バワが隅々までこだわって創ったホテル。自然との一体感がとにかく圧倒的。
最高級ホテルが供する繊細なスリランカ料理を晩ご飯でしっかり勉強したので、朝ご飯は癒し系ワッフルと紅茶。スパイス抜きで息抜きしました!笑
Photo #3, #4 by Sho Hamada
★キッチンスタジオペイズリー「スリランカ・ツアー2018」レポート
伝統菓子作りを体験。
スリランカのお正月は4月中旬で、新年を寿ぐお菓子をたくさん作ります。日本でいうとお節料理のような存在です。
その頃ならホテルのビュッフェでも街中のスーパーでも簡単に手に入るのですが、季節外れなので、実演してくれる所を探してもらいました。
作り手は、村に一人はいるようなお菓子作り名人の奥さん。参加者も何人かトライしましたが、なかなか難しかったね!いい経験。
ちなみに、これらのお菓子は結婚式や記念式典など祝いの席にも登場します。今では作れる人が減っているため、お正月前になると、作り手さんたちは1ヶ月以上前から大忙しだそうです。
★キッチンスタジオペイズリー「スリランカ・ツアー2018」レポート
ツアーの皆さんをお連れしたくて移動スケジュールにねじ込んでもらったのが、朝ごはんを食べたレストラン「アンマーチ」。
学生食堂のように料理ごとに並んで買います。
作っているところを見られるし、地元の人でにぎわう美味しさで、大好評でした。
ミルクアッパー2枚で30ルピー(20円ちょっと)など庶民価格で、通勤途中に寄って食べていく人、テイクアウトする人……通勤ファッションを見るのも楽しい。
政府が女性の雇用のために全国各地に作っているレストランで、シンハラ語圏では「ヘラボジュンハラ」という名前で知られています。
★キッチンスタジオペイズリー「スリランカ・ツアー2018」レポート
ツアーの皆さんに田舎の一般家庭の台所をお見せしたくて、漁村で家庭訪問。
ジャフナ名物の「オディヤル・クール」という海鮮鍋を作って迎えて下さいました。さすが漁村、元漁師さんのお宅のクールは絶品でした!
ご厚意で受け入れてくださったジャヤンティさんご一家に感謝を込めて、香取先生の提案で日本人3名がインドムービーダンスを披露したところ、むこうも返礼のダンス、からの、ディスコ状態に…笑
ジャヤンティさんは40才くらいですが、2004年のスマトラ沖地震津波や2009年までの内戦により、これまでの人生で3度も、家を失って着のみ着のまま逃げ出す経験をされています。
ツアーの皆さんには、先入観なく、大家族の賑やかで幸せそうな暮らしぶりを感じていただけたらと、そういった事情は後からお話ししました。「被災者」「元・避難民」としてではなく、日々台所に立って食事の支度をするひとりの女性として出会っていただけたらと…
料理に関心があって参加された方ばかりなので、同じく台所に立つものとしての共感や、台所というプライベートな空間に立ち入らせていたいたことへの感謝、そんな気持ちも自然に、ジャヤンティさんやご家族に伝わったのではないかと思います。
このあたりの地域は観光客慣れしているわけでもなく、しかも26人+現地コーディネータさんたちという大規模なツアーなので、実は、訪問は難しいかなと思っていました。
それが可能になったのは、NPOパルシックの駐在員だった伊藤文さんのお陰です。この地に何年も暮らし築き上げてきた信頼関係あってこそ「文さんのお友だちならどうぞ」と言っていただけました。
伊藤さんのお仕事について以前ブログで紹介したのでご覧いただけたらうれしいです。ジャヤンティさんはこの裁縫プロジェクトで内職してお子さんたちの塾費用を稼いでおられます。
関連記事:
子どもを塾にやる費用を稼ぐ
帰り道にはスリランカ最北端の地に寄って記念撮影。敬愛する同僚の冨塚紀子先生と。
Photo #2, #4, #5, #6 by Sho Hamada
★キッチンスタジオペイズリー「スリランカ・ツアー2018」レポート
ジャフナに到着した私たちを迎えてくれたのはタミル人のプラバーさん。ここスリランカ北部はシンハラ語があまり通じないので現地のコーディネーターをお願いしました。
コロンボから全日程をサポートしてくださっているシンハラ人のツアーガイドも、お名前がプラバーさん。スリランカ南部の出身で、内戦終結からもうすぐ10年ですが今回初めてジャフナに来たそうです。シンハラ人の多くにとって、言葉も通じないジャフナはまだまだ「遠い」町。
二人の会話にそっと耳をすませると、英語でした。旅行業に携わる者どうし共通の関心は尽きない様子。
日本人から見ると驚きですが、二人ともマルチリンガルで、南のプラバーさんはガイド業を堪能な日本語でこなし、英語ももちろんできて、母語はシンハラ語。
北のプラバーさんは母語がタミル語、仕事のためシンハラ語と英語。
外国からの私たちを温かく迎え、スリランカと繋いでくれる二人のプラバーさんたちの背中について歩きながら…
ジャフナが誇るナッルール・カンダスワミ寺院(ヒンドゥー教)の大祭に向かう夕暮れです。
நல்லூர் கந்தசுவாமி கோவில்
Nallur Kandaswamy Temple
Photo #1, #3 by Sho Hamada
★キッチンスタジオペイズリー「スリランカ・ツアー2018」レポート
スリランカで迎えた最初の朝、まずは料理教室から。
日本では手に入りにくい、南国特有の野菜をメニューに含めるようリクエストしました。きいたことはあるけれど食べたことはない、そんな野菜が登場して、みなさんテンションMAX。
ココナッツを削る練習も。
Photo#1, #2, #3 by Sho Hamada
★キッチンスタジオペイズリー「スリランカ・ツアー2018」レポート
ツアー最初の2泊はシナモングランドホテルです。
写真は朝ごはんのエッグ・ホッパー、焼きたてほかほか、ムチムチのカリカリのトロットロ~~♪
このホテル、昔はインド資本でランカ・オベロイという名前だったのですが、2003年にキールズが買収して今の名前に変わりました。
いつか日本からのお客さんをお連れするならここしかないと思っていた、便利なホテル。隣接するクレスカット・ショッピングモールともども、駐在時代の思い出が詰まった場所でもあります。
2000年当時、クレスカットの、いまSUGARというカフェが入っているところはDelifranceでした。
市内でカフェといえばDelifranceくらいで、そことODEL店の2店舗のみ。週末、どっちかの店に三輪タクシーを乗り付けて、夫と二人で朝ごはんを食べるのが心の癒し、内緒の贅沢でした。
頼むのはいつも、ゆで卵のマヨネーズ和えとレタスをはさんだクロワッサンにカフェオレ。
あまりにも幸福感がすり込まれているのか、今でも我が家では時々、週末のブランチにそのメニューを作ることがあります。
★キッチンスタジオペイズリー「スリランカ・ツアー2018」レポート
地方都市ジャフナでの仕事を終え、夜行バスでコロンボに戻ってきました。
勤め先の料理教室、キッチンスタジオペイズリーのスリランカツアーご一行は、成田で出発便が3時間遅れましたが先ほど無事に飛んだようです。
今日はオフDAYにして、スパイス料理もお休み!夜、ツアーの皆さんをお迎えするまでしばし鋭気を養います。
ちなみに今朝6時前に到着したので、夜のチェックインまで荷物だけでも置かせてもらおうとシナモングランドホテルに行ったら、朝9時に部屋に入れるようにしてくれたうえ、それまでシャワー付きのラウンジを使っていいって!
この規模のホテルなら当たり前なのかもしれませんが、とっても嬉しかった…笑
ジャフナとの往復は夜行バスがとても便利なんですが、朝ものすごく早く着くのだけがいつも困ってしまう。
常宿にしているジャフナのジェットウィングホテルはラウンジとかないので、もったいないようだけれど前の晩も一泊分取っておくしかありません。
小さいホテルなら24時間チェックインのところにしておかないと、朝6時でも門番さんが寝ていて開けてくれず往生したことがあります。早朝に着くよって、もちろん事前に伝えてあったんですけどね。
昨日のお買い物。
キトゥル椰子のジャガリー(椰子糖)はペター市場から。煮詰める時に砂糖を添加していない純度100%の高級品です!道端とかスーパーで売ってるのは大抵、砂糖入り。店内は東京の満員電車もビックリな押し合へし合いぶり、市場内でも特段の人気店の品です。
リバティプラザで見つけた三輪タクシー柄のバータ(ビーチサンダル)。
トゥクトゥクっていうタイ式の呼び方、最近すっかり定着したようで。以前はスリランカでは通じなかったんです。バジャージとかトライショー、スリーウィーラー、オートって呼んでた。
今度の日曜日から料理教室のスリランカツアーなのですが、私だけひと足先に来させてもらっています。
朝ごはんはカリッふわっのメドゥワダが無性に食べたくてタミル食堂で。
それからバスに飛び乗って、まずはペター市場に向かっているところです。
白いワンピースの制服に赤いリボンのお下げ髪は、20年近く前に初めてこの国に来たときから変わらぬ女子高生の定番ファッション。
季刊紙サイクルというフリーペーパーにスリランカのことを書きました。
自転車でピクニックなど今号も楽しい記事がいろいろ!
季刊紙サイクルを置いて下さるお店、絶賛募集中だそうです。
設置店一覧と、送付申込先はこちら↓↓
http://www.cycleweb.jp/where.html
季刊紙サイクル
https://www.facebook.com/cycleweb/
キッチンスタジオペイズリーのスリランカ料理コース、今年も始まりました!香取薫先生と私が交代で担当します。
初日の今日は伝統的な土鍋で豆を煮たり、臼と杵でココナッツの和え物をトントンしたり。インド料理とは違うスパイスやハーブもいろいろ登場しました。
座学も、ここ数年スリランカに通って調べていることなど盛り込んでみっちりやりました。混ぜて煮るだけなんかじゃない、スリランカの食文化の奥深さ、多様性。何時間でもしゃべれるわ…笑
ペイズリー生徒のみなさん、8/26~9/2のスリランカ・ツアーまだ受付中ですよ!コロンボ到着の翌朝、まずは料理教室からスタートです。選りすぐりのスポットを解説付きで巡るグルメツアー、早めにお問い合わせくださいね!
子ども向け雑誌のお正月特集号より。
小学館の雑誌のように学年ごとに内容が違いました。スリランカ北部のジャフナという町で買ったので、タミル語で書かれています。シンハラ語がほとんど通じない町です。
シンハラ人のお正月のお菓子とほぼ同じように見えますが、詳しく見ると違うところもあるのかな。
スリランカの人口の75%がシンハラ人、15%がタミル人。インドのタミルナードゥ州のタミル人にこの絵を見せたら自分達の風習とはだいぶ違うという反応でした。
スリランカは今日がお正月。先ほど11:43AM(現地時間8:13AM)に新しい年が始まりました。明けましておめでとうございます!
たまたまですがランチは都内のスリランカ料理店にて。ロウソクとお菓子が飾られお正月モードです。
සුභ අලුත් අවුරුද්දක් වේවා !
இனிய புத்தாண்டு வாழ்த்துக்கள்!
なぜ4月がお正月なのかというと・・・
天球上おける太陽の見かけ上の通り道(黄道)は12の区画に分けられており12星座の名前がついているのですが、太陽が「牡羊座」の区画に入るタイミングを正月としているのだそうです。
大昔は太陽が牡羊座に入るのは春分だったが、地軸の傾きの変化でどんどん時期が後ろ倒しにずれているという説明もきいたことがあります。占星術に詳しくないので理解しきれないのですが諸説あるようです。
スリランカのカレンダーでは月の動きがすごく重要で、毎月、満月の日は国民の祝日になるほどですが、この正月に関しては月じゃなくて太陽の動きに基づいて決めているんですね。
現地語での呼び方をちゃんと覚えようと思って、シンハラ文字とタミル文字の読み方を貼っているところ。
輸出用とは違った、地元向けのレトロなデザインのノリタケを少しずつ集めています。
日本を代表する陶磁器メーカーのノリタケが、上質な土と水に恵まれたスリランカに目をつけて工場を開いたのは1972年。年表
以前、夫の誕生日にプレゼントしたノリタケ×バンダイのコラボ 「シャアのティーカップ」もMade in Sri Lankaでしたよ。
コロンボ中心部の大手書店Vijithayapa Bookshopにずらっと並ぶ名作たち。
昔、NGOでコロンボ駐在してた頃こんなのあったら棚ごと大人買いしてたな…。
読み物に飢えて、お金もないのに7000円分の小説本を5000円も送料払って取り寄せたのを思いだします。当時、同僚の月給が7000円でした。
まだ日本のAmazonが始まったばかりの頃で、高いとはいえお金さえ払えばこんなところまで届けてくれるって、なんて素晴らしい時代になったんだ!!と思ったんですよね、その時も。
スリランカでは大学や高校の入試科目に日本語を選択できるから、それをきっかけに日本文化に触れる子もいるようです。スリランカの日本語教育事情